前置き | 1992年頃、多くのパソコン通信ネットの掲示板に書きこんだメッセージを、どこかの文学賞に応募しようと思い、書き直した作品。 |
だれか、私と結婚してください このかわいそうで惨めな私と、どなたか結婚してください。 8月16日、東京のサレジオ教会で結婚式を挙げる予約を既に済ませております。どうかお願いです。この日に私と結婚してください。 なぜ私がこんなことを恥も外聞もなくお願いすることになったか、誰だって理由を聞きたいでしょうから、話は多少長くなって非常に恐縮ですが、今から少しばかり詳しく説明させていただきます。 高校時代、私は陽子という女性と付き合っていました。2年のときに私とクラスが一緒であった彼女は飛び切り目立つほどの美人ではなかったですが、色白で髪の毛が長く、非常に気さくで誰とでも気軽に話すことができる、かなり人気のある女性でした。同じ学年の男子生徒だけでなく、先輩の中にも陽子を好きになった人が数人いるという噂を聞いたことがあります。 そんな彼女と、スポーツも勉強もさっぱりうだつの上がらない私が付き合うことができたのは意外でした。確かに私は彼女が好きでした。しかし、別に私のほうから付き合ってくれと告白したわけではなく、クラスで席が近いためによく話をしているうちに、いつのまにか傍から見れば恋人どおしの関係に思われ、他の人が私たちに近寄らなくなったという感じです。私は幸運でした。 陽子との交際は高校卒業後も続きました。彼女が食品会社に就職しても、私が大学に4年間通い、商社に勤めても二人の関係は破綻することなく、多少の言葉による喧嘩で冷却した時期もありましたが、ほぼ順風満帆といったところでした。 そして、私たちが27歳になった時、当然の成り行きとして、そろそろ結婚しようか、という話になり、これまた当たり前に両方とも同意して、昨年の11月、お互いの両親に挨拶を済ませた後、めでたく婚約をいたしました。 私は一人息子なので、私の両親は二人のために新築マンションを購入してくれました。父は一流企業に勤めているわけではなく、今後の生活は苦しくなるのは目にみえていましたが、それでも若い私たちのために大きな買い物をしてくれました。 一方、彼女の両親は、私たちの新居に必要な家具類をすべて新品で調達してくれました。彼女の父親も普通のサラリーマンでしたが、母親は毎日パートで働いており、一人いた姉は既に嫁いでいたため、私の実家ほど痛手は被らないように思えました。 マンションへの入居は建物完成後の8月からでした。それまでは以前と同じく、私は会社の寮に、彼女は両親の家に住むこととし、婚約したからといってすぐに同居することは考えませんでした。もちろん、経済的理由(田舎の私の両親も反対したのも)からですが、すぐにでも同棲したかったというのが本音です。 いずれにしろ、私たちは婚約後も毎日会い、どのような家庭を築いていこうか二人で考えを巡らせ、幸せ一杯の日々を送ってました。 それは忘れもしない、年が明けてすぐの1月13日のことでした。 いつものように会社帰りに会っていた喫茶店で、陽子が突然、 「結婚する前に外国で英語を習いたいの」 などと言い出したのです。 「行ってもいいでしょ」 それはねだるような声ではなく、ノーと言わせないような威圧感がありました。 「なんで今ごろになって・・・?」 私は当然の疑問を抱き、彼女にぶつけました。長い期間彼女に会えないなんて酷です。つらすぎます。私は猛反対しました。 いつもと違い、陽子は強硬でした。どんなに自分が寂しいか、結婚前の彼女を外国に送ることがどんなに不安か、結婚のためにかなりの出費をしているのにどうして無駄としか思えないことに金を使うのか、などを話して説得し続けたのですが、彼女は折れません。 結局、陽子に 「じゃ、結婚した直後に行くわ、私の金で」 と開き直られては、私はしぶしぶ許可する以外にはありませんでした。 彼女が短期海外語学留学に行くことを許してしまったことが、後になって私の人生をめちゃくちゃにしてしまう過ちになろうとは、その時誰が考えたでしょう。 衝撃の発言からたった2週間後の1月28日、陽子は、3ヶ月の語学研修のため、オーストラリアのシドニーに向かうカンタス航空253便に乗り込み、旅立ちました。 彼女は私に今回の件を話すかなり以前からある程度綿密に計画を立てていたらしく、28日の航空券もすんなりと手に入れ、通うべき英語学校も既に決まっていました。シドニー滞在中、とある白人の家でホームステイするという手はずも、かなり前に旅行会社が整えていたようです。私はまったく気づきませんでした。 陽子はオーストラリアに着いてからほんんど毎日のように手紙をくれました。ホストファミリーはどんな人達か、自分が使わせてもらっている部屋はどんな感じか、英語学校の授業や先生はどうか、学校が終わってから何をしているか、などいろいろなことを書いてきました。 どんな内容であれ、手紙の最後には必ず「I love you」と書いてありました。それを見るたび、彼女に会えない私の寂しさは、日増しに強まっていくばかりでした。恥ずかしいのですが、自分の部屋で一人涙を流すこともありました。 陽子が旅立ってから1ヶ月くらいたった頃でしょうか、いつものように届く小奇麗な手紙に1枚の写真が同封されていました。手紙によると、数日前、ホストファミリーの子供の誕生パーティーがあり、親戚、友人など多数が集まったそうです。写真は、その時に参加者全員で撮ったものと書かれていました。 全部で15人くらい写っていました。最前列の真ん中には、恐らく12歳になったばかりの誕生パーティーの主人公の少年。赤い三角帽子をかぶったその少年の周りには、小さな子どもからおじいさんまで様々な年齢層の人達がいました。 陽子を見つけるのは簡単でした。彼女以外は全員白人だし、長い黒髪の女性は陽子だけですなのですから。 写真の中の彼女はいつもどおりの愛くるしい笑顔をしており、その顔を見れば見るほどますます会いたい気持ちが増幅されていくばかりでした。知らないうちに涙が一粒、頬を伝って流れ落ちました。 その直後です。私はちょっと気にかかることをその写真に見出したのです。最初は彼女の顔のことしか目に入らずに気付かなかったのですが、よく見ると陽子は非常にハンサムな金髪の若者と肩を組んでるではありませんか。レオナルド・デカプリオによく似た、かなりの美男子です。日本の街を歩いていたら、すぐに若い女が大挙して群がるのではないかと思われるような超カッコイイ男でした。 私は、このときにはじめていやな予感がしたのですが、まさかこの男が私たちの結婚を破局に追いやる原因になるとは、一枚の写真からは考えられないことでした。 あの写真が届いてからさらに2、3週間くらいたった頃でしょうか。私の会社に数年前まで勤めていた芳恵から突然、手紙が送られてきました。芳恵とは単なる同僚というだけの間柄で、一緒に仲間と飲みに行ったことはあるけれども、特別な関係はありませんでした。今の仕事が自分に適してない、とか言って会社を辞めた女性で、出版会社に再就職したと聞いた覚えがあります。 彼女からの手紙によると、なんと、芳恵と陽子は小学校時代の親友だったそうで、シドニーの英会話学校で十何年ぶりにばったり再会したというのです。彼女らは、偶然にも、日本からはるか離れた異国の地で、同じ時期、同じ学校で英語を学んでいたのです。芳恵は、婚約のことを陽子から聞き、話を聞いていくうちに、その相手が実は職場で毎日顔を合わせていた同僚だったということがわかり、さらに驚いたとのことです。懐かしさもあり、私に婚約祝いの手紙を送ってくれたのです。会社での私のことを熟知している人間が陽子の元親友とは、私は少し気まずい思いがしました。 そうこうしているうちに、陽子から私に送る手紙のペースががたっと落ちてきていることに気づきました。以前は毎日、最悪でも2日に1回くらいで届いていたのですが、いつの間にか3、4日に一度くらいに激減していました。手紙の内容も、目新しいことは少なくなり、ただ、「今日学校へ行った」「帰ってから買い物に行った」「何時に寝た」といったどうでもいい事柄ばかりが目立つようになりました。 私は彼女の具合が悪いのではないか、勉強に疲れて体を壊しているのではないか、と想像して少し心配になりました。一応、その辺のことを尋ねる手紙を書いてみたのですが、それに対しては「大丈夫」と答えてくるだけでした。 本当は電話で直接話したいところですが、自分の英語力の貧困さからこちらから掛けるのは気が引けるというのと、安くなったとはいえあいかわらず高い国際電話はなるべくしないようにしようと陽子と話し合っていたため、事態を静観せざるを得ませんでした。 不安を抱えながら過ごしていたある日、芳恵がショッキングな内容の手紙を私に送ってきました。 なんと、陽子があの写真に写っていたデカプリオ似の金髪ハンサム男の家に毎日通ってるというのです。陽子が彼の家に出入りするようになってからは一層幸せそうに見えると芳恵はいうのです。心配ないと思うけど、一応陽子に問いただしてみたら、と芳恵は書いてきました。 私の不安は極限にまで達し、居ても立ってもいられなくなり、思い切って彼女に電話をかけることにしました。 今まで外国に電話をかけたことがまったくなく、ボタンを押す指がちょっぴり震えていましたが、ためらいはありませんでした。 陽子から聞いていたホストファミリーの電話番号をすべて押し終えると、ちょっとの間を置いて、NTTとは明らかに異なる電子音が聞こえ始め、「Hello」という女性の声が聞こえてきました。理解できたのは最初の「Hello」という単語だけで、あとはちんぷんかんぷんでした。 私は陽子から言われていたとおり、ただがむしゃらに「ヨーコ、プリーズ、ヨーコ、プリーズ・・・」と連呼しました。 女性は何かひとこと言って、電話機から離れたようです。すぐに「Yoko! Yoko! 何とかかんとか」という彼女の叫び声が聞こえ、やがて何者かが階段を降りる足音が受話器を通じて聞こえてきました。 「達也?」 陽子でした。 私は彼女と久しぶりに直接話をすことができた喜びなどまったく感じることなく、すぐさま尋問口調で陽子に言いました。 「芳恵さんから話を聞いた。君は例の写真で肩を組んでいた金髪の男の家に毎日通っているということじゃないか! その男の家で毎日一体何をやっているんだ!」 「芳恵ったら・・・」 陽子は笑っていました。 「彼の弟の家庭教師をしているの。その子は、もうすぐ交換留学で日本の高校に学びに行くから、日本語を教えてあげてるの。ただそれだけよ」 「彼の」という陽子の言い方にかなりの違和感を覚えました。確かに英語では「he」とか「she」などという表現を頻繁に使うのでしょうが、日本語で「彼」「彼女」といったらボーイフレンド、ガールフレンドという意味です。 その後、延々と陽子を問いただしたのですが、彼女は「弟に日本語を教えてるだけ」の一点張りです。終いには「馬鹿じゃないの?」などと言い出す始末です。 私の疑念は消えるどころか逆に深まるばかりです。 電話で話をしても一向にらちが明かないため、私はオーストラリアの彼女の所へ行く決意をして、電話を切ったのです。 仕事が忙しくてまとまった休暇を急に取ることは不可能でしたが、何とか上司に事情を説明して4日間の休みをもらうことができました。いわゆる格安チケットは直前であったので買うことはできず、仕方なく高いノーマル運賃を支払い、陽子のいるシドニーへとすぐさま出発しました。 オーストラリアは南半球にあり、日本とは正反対の夏の盛りでした。しかし、休暇をエンジョイしに来たわけでない私にとっては、暑かろうが寒かろうが、晴れてようが雨だろうが、まったくどうでもいいことでした。 シドニー国際空港での入国手続きを済ませて外へ出ると、暑くて厚手のセーターを脱ぐこともせずにすぐさまタクシーに乗り込み、運転手に英語で書かれた陽子のホームステイ先住所を見せました。運転手は何かを言い(もちろんわからない)、すぐに車を発車させました。地図が無くても住所だけで行けるようです。 途中、何度か運転手に話し掛けられたのですが、私は「アイ キャント スピーク イングリッシュ」と答えるだけでした。実際には非常に簡単なことを易しい英語で聞かれていたのかもしれませんが、その時の私にはそれを理解しようとする心のゆとりなどまったくありませんでした。 30分ほどして、タクシーは大きな一軒家の前で停車しました。どうやら着いたようです。私はタクシーメーターに書かれた料金を運転手に渡し、タクシーを降りたのです。家の前の郵便受けには「Smiths」と書かれ、間違いなく陽子のホームステイ先のようです。 私はメインドアをノックして叫びました。 「エクスキューズミー!」 すぐにドアが開き、栗色の髪をした、小太りの中年女性が現れました。恐らく、この家の奥さんで、陽子のホストマーザーに当たる人なのでしょう。陽子が送った写真に写っていた人の一人であるような気もしますが、よくわかりません。 私が「アイアム ヨーコズフィアンセ」と言うと彼女は 「oh! ナントカカントカ」と笑顔で話をし始めました。 やがて私の英語力が相当貧困であることを知ったのか、ジェスチャーを交えて、ゆっくりと簡単な英単語を羅列してくれました。そこまでやってもらうと、どんなに英語がだめな日本人でも大体わかります。 陽子は今、そこにはいないということでした。他の家で日本語を教えているらしいのです。どうやら、例のデカプリオ似の金髪男の家にいるようです。 私が陽子のいるところへすぐに行きたいとお願いすると、ホストマーザーらしき女性は電話でタクシーを呼んでくれました。私はデカプリオの家に向かったのです。 オーストラリアのレオナルド・デカプリオの家は異常なほど大きな屋敷でした。馬鹿でかいガレージには、日本車のセリカとブルーバード、それにアメ車が1台、そして多分オーストラリアの国産車と思われる大きな車が2台、計5台がずらーと並んでいました。まだ駐車のスペースがあることからもう2台くらい車を持っているのかもしれません。建物は1階建てですが、一体何十部屋あるのだろうかと、想像がつかないほどの広さです。新築というわけではありませんが、まだ建ってからさほどの年月は経てない感じです。黒を基調としたシックな感じの建物で、有名な建築家か設計したのではないかと思われるちょっぴり斬新なデザインがそこかしこに伺えます。 私は、この屋敷に入ると、今までの楽しかった人生が音をたてて崩れてしまうのではないか、という漠然とした不安を感じ始めました。 ハンサムでも何ともない自分と金髪のデカプリオ。どっちがいいかと尋ねられれば、たとえ私の性格のよさが数倍上回っていたとしても、1万人中1万人全員の日本人女性はデカプリオを選ぶのではないか。男は顔じゃないなどと言われているけれども、やっぱり女性はハンサムのほうが好きに決まっています。カッコイイ男だったら何でもいくらでも我慢できるという女は日本に五万といるでしょう。 色々なことを考えながら、屋敷の入り口に歩み寄ったのですが、どうしても玄関のカメラ付きインターフォンのボタンを押すことはできませんでした。 まだ、あのハンサムな金髪男に陽子を奪われたのかどうかは定かではありません。真実を確かめるためにこうしてわざわざはるばるオーストラリアまでやってきているのです。まだ何も確認できていないのです。しかしながら、私の頬には涙がとめどもなく流れてくるのでした。 玄関の前で10分くらいためらっていたでしょうか。結局私はインターフォンのボタンを押すことができませんでした。私はデカプリオの屋敷から離れると、あてもなくさまよい歩き始めました。 シドニーの高級住宅街を呆然として歩いている間、私の脳裏には陽子と過ごした10年間が1こま1こま走馬灯のように蘇るのでした。「走馬灯のように」という言い回しは、その時までは誇張しすぎた陳腐な比喩表現だと思っていたのですが、その時の私の頭の中には完全に走馬灯が入っていました。 楽しかった場面が現れると、私は思わずニヤけてしまうのですが、次の瞬間にオーストラリアの風景が目に飛び込んできて、なぜ自分がここにいるのかを嫌でも思い出し、再び絶望の縁に立たされるのでした。 そうこうしているうちに、住宅街を過ぎ、私はいつの間にか海岸にたどり着いていました。海水がねずみ色の湘南あたりの海とはまったく異なる、真っ青できれいな海でした。水しぶきの白さが目立ちます。晴れていて風も多少あり、沢山のヨットが帆を立て右へ左へ進んでいます。ウインドサーフィンをやっている人も結構います。砂の上に寝転び日光浴をしている人もちらほらですが見られます。 陽子は海が好きでした。夏はもちろん、冬でも車で湘南、三浦半島、房総半島へとドライブに出かけたものです。肌によくないといって近年は真夏でも水着にならず、普段着のまま砂の上に腰掛け、沖のほうをぼうっと眺めているだけでしたが、いつまで経っても飽きないようでした。そんな彼女の横に座り、私も話をせずにじっと海を見つめていました。 シドニーの真っ青な海を見ながら波の音を聞き、潮風にさらされていると、私はどうしても陽子に会いたくなりました。 私は意を決して、デカプリオの家に向かいました。もうためらいはありません。私は陽子に会うためにシドニーにやってきたのです。たとえ 最悪の結果を目にすることになろうが、それは運命なのです。受け入れるしかないのです。 デカプリオの屋敷に着くと、今度は躊躇なくすぐにインターフォンのボタンを押しました。英語で何か言ってきたらどうしよう、などと考える暇などありませんでした。来るなら来やがれという感じです。 しかし、応答はありませんでした。何度かボタンを押してみたのですが、インターフォンのスピーカーからは何も聞こえず、誰かが出てくるという気配もまったくありません。 壊れてるのかもしれない、と思い、私は大声で叫びました。 「エクスキューズミー! エクスキューズミー!」 が、それでも返事はありません。 私はドアのノブに手をかけ、ひねってみました。 ドアは簡単に開きました。鍵は掛けられていなかったのです。 私はもうやけくそになっていたので、勝手に家の中に入り込んでいました。 入り口を入るとすぐにねずみ色の絨毯敷きのちょっとした空間があり、黒いソファが左側に、右手にはギリシャ神話に出てくる人物らしき石膏像が置かれていました。もちろん、靴を脱いで上がるという習慣のない外国であるので、下駄箱などはなく、日本の玄関とは明らかに異なる構造です。 正面には通路が真っ直ぐに伸び、その左右にはいくつものドアが等間隔に並んでいました。その1つ1つが各部屋へ通じるドアであるのは明白で、そのうちの1部屋に陽子がいるはずです。 私ははるか前方へと続く通路をゆっくりと歩き始めました。家の人に会ったらどう弁解しよう、などということはまったく頭にありませんでした。 15メートルくらい歩いたでしょうか。すぐ左のドアから人の声が聞こえてくるのに気づきました。耳に入ってくる声はかなり小さいため、それが男のものか、女のものかすらわかりません。私はドアに耳を押し当て、息を殺して部屋の中の様子を伺いました。 若い男の声が聞こえます。恐らく二十歳くらいの外人でしょう。憎きデカプリオかもしれません。誰かと話しているようです。 しばらく盗み聞きをしていると、突然、聞き覚えのある声が耳に入ってきました。陽子の声です。陽子が英語を話しているのを聞いたことはありませんが、外国語を話すからといって声質が変化するわけではないので間違いありません。 私の体は怒りのために震え始め、発作的に私はノブに手を掛け、勢いよく引っ張りました。ドアは180度回転し、通路側の壁に激しい音を立てて激突しました。 部屋の中には私の人生を根底から覆す光景が広がっていました。 15畳はあろうかという大きさな部屋の天井には見事なシャンデリアが吊り下げられていて、窓から降り注ぐ日の光を受けてきらきらとまばゆく輝いていました。壁はゴールドコーストの青空を彷彿させる鮮やかなスカイブルーで統一されています。部屋の中央、シャンデリアの真下には、大きなダブルベッドが置かれ、真っ白なベッドカバーが掛けられていました。 右奥、出窓の前には、子供の勉強机と思われるテーブルが置かれ、そのすぐ右側に陽子が座っていて、唖然とした表情をこちらに向けています。テーブルの反対側には年齢が17、8の、恐らくデカプリオの弟と思われる金髪の男が腰掛けており、テキストらしき本を手にしていました。 そして、その男のすぐ右隣には、今まで私が見たことのない妖精のように美しい金髪の少女が座っていたのです。その可愛さを言葉で言い表すことは不可能です。どんなに美しいといわれている女優、たとえミスワールドであっても彼女の前では色あせてしまうでしょう。 私はその女の子のあまりの美しさ、可愛らしさにめまいを覚え、倒れそうになりました。 私は足元をふらつかせながらも陽子のそばまで歩みより、何がなんだかさっぱりわからないという顔の陽子の目にしっかりと視線を向けながら真剣な声で言いました。 「婚約を解消しよう」 こんなに美しくて可愛い女の子がこの地球上にいるとわかっていて、どうして陽子ごときと結婚できましょうか。 陽子が「なぜ!」と絶句する前に私はその金髪の妖精を口説きにかかっていました。 後でわかったことですが、陽子は本当にデカプリオの弟に日本語を教えるために毎日彼らの家に通ってただけで、デカプリオ本人とは深い関係はありませんでした。 陽子はショックのあまり、すぐに日本へ帰ってしまいました。 私は3日間オーストラリアに居続け、あの美少女にモーションをかけ続けたのですが、なにせ英語がいまいちなため、まったく相手にしてくれませんでした。そして、私も失意のうちに日本に戻ってきました。 陽子はまだ私の冗談に気づいてくれず、会ってもくれません。 8月16日の結婚式には私の親戚、友人すべてに招待状を送ってしまっています。 どうかお願いです。どなたか私と結婚してください。 |
作者の コメント |
掲示板に書いた後、多数の絶賛メールとともに、真面目な方から説教メールもいただきました。 陽子さんに謝りなさい、あなたに非がある、などと100行にも及ぶメールを書いて私を諭そうとしてくれた方もいらっしゃいました。 (作者:フヒハ) |