前置き | 1993年頃、パソコン通信の掲示板に書きこんだメッセージを、某短編小説文学新人賞に応募するために書き直した作品。 |
かりんとう 日曜日の昼過ぎ、渋谷のファーストフード店は滅茶苦茶に混んでいました。カウンターの前には、数えることが得意な日本野鳥の会の会員ですら途中で投げ出してしまうのではないかと思われるほどおびただしい数の人が並んでおり、さえない気分の私はその中で順番待ちをしていました。列を作って並ぶというのが大嫌いな私ですが、片思いの裕美子のために我慢せざるを得なかったのです。 裕美子は私の働く会社で受付をしている二十三歳の女の子です。美人のうえ頭がよく、独身男子社員全員の憧れの的でした。特定のボーイフレンドはいないという噂なので、私は何度も彼女をデートに誘ったのですが、ことごとく断わられました。 ところが、その日の朝、どういう風の吹きまわしか、裕美子が電話で私を食事に誘ってきたのです。 大好きな女の子と一緒に食事をする場合、男なら普通、かなりの出費を覚悟の上でフランス料理などを食べに行くことでしょう。レストランでは、舌鮃のムニエルなんかを食べ、高級ワインを味わいながら二人のムードを徐々に盛り上げ、夜になったら一気に下心のおもむくままの行動に移りたいところですね。もちろん、私もそれ相応の準備をして渋谷に出かけました。 ところが、裕美子は待ち合わせ場所で私に会うなり、こんなことを言い出したのです。「一時半から別の友達と約束があるの。あと一時間しかないから、このファーストフード店で食事しましょう」 「えー!」私は思わず不満の声をあげました。 「すっとんきょうな声を出さないでよ。二人分の席とっておくから、注文しといてね。私はハンバーガーとミルク。頼んだわよ」裕美子はこう言って、さっさと二階に上がって行ってしまいました。 朝から徐々に張りが増し続けていた下腹部の緊張の糸が、その時、プッツンと切れたのを私は感じました。 ブスのどうでもいい女からこのような侮辱を受けたとしたら、とっととひとりで家に帰ってしまうところでしょうが、相手は何と言っても憧れの裕美子です。私は何ともやりきれない気持ちでカウンター前の長蛇の列に加わっていたのです。 並び始めてから二十分くらいたったでしょうか。やっと私の番がやってきました。私は裕美子の分を含め、ハンバーガー二つ、それにミルクとコーンポタージュスープを注文しました。金を払い、店員からハンバーガーと飲物を受け取ると、すぐに階段をのぼり、彼女が確保してくれていた席につきました。その時、裕美子の口から「ごちそうさま」だとか「こんなに長い間並ばせちゃって、ごめんなさい」などといった言葉が発せられるものだと私はてっきり思っていたのですが、実際に彼女が口にしたのは「あら、やけに遅かったじゃない」の一言だけでした。 私が(ふに落ちないなあ)といった表情をしていると、裕美子は紙コップに入ったコーンポタージュスープをいきなり飲み始めました。 「裕美子さん」私は言ってやりました。「コーンポタージュスープは僕のだよ。裕美子さんは、この紙パック入りのミルクでしょ?」 「これでいいの」裕美子は平然と答えました。「あなたを待っている間におなかの調子がおかしくなっちゃったの。ミルクはあなたが飲むのよ」 私は裕美子が信じられなくなりました。ファーストフード店でちょっと昼飯を食うためにわざわざ人を呼び出し、長時間順番待ちをさせ、飲みもしないミルクを買わせ、おごってもらいながらお礼すら言わず、他人のコーンポタージュスープを勝手に飲み、そのうえ、朝から下痢をしている私に冷たいミルクを飲ませようとするなんて・・・。 裕美子に対する怒りが一気に膨らみました。しかし、彼女が口をつけたスープを私が飲めば、「間接キス」ができるという可能性が残っていたため、私はどうにか冷静さを保つことができました。 ところが、裕美子は、この淡い希望までもこっぱみじんに打ち砕いてくれました。彼女はスープを最後の一滴まで飲み干しただけでなく、空になった紙コップをわざわざ両手で握りつぶし、ごみ箱に放り込んだのです。 私の堪忍袋の緒は完全にぶっちぎれました。 「ふざけんな!」私は周囲を気にすることなく、裕美子に罵声を浴びせかけました。 「おまえはミルクを飲みてーって言ったんだぞ! この大馬鹿野郎!」 騒がしかった満員の客は、私の怒鳴り声に驚き、突然しーんと静かになってしまいました。裕美子は急に泣き出しそうな表情になり、細々とした声で言いました。 「ご、ごめんなさい・・・」 すぐに裕美子の目からは大粒の涙がこぼれ落ちてきました。 (う、可愛い!)彼女の泣き顔を見て、私の怒りは一瞬にして消え去りました。その時の裕美子の愛くるしさといったら、言葉でなんか絶対に表現できるものではありません。 先ほど切れたはずの私の下腹部の緊張の糸は、いつの間にか再建されており、その張り具合いは、強烈なサーブが売り物のテニスプレーヤー、ボリス・ベッカーの持つラケットのガット以上のものになっていました。 私は声をあげて泣き始めた裕美子の肩に手をかけ、優しくささやきました。「いいんだよ。僕のほうこそ怒鳴ってごめんね。ミルクは捨てればいいさ」 「捨てるなんてもったいないわ!」裕美子は突然泣くのをやめ、毅然たる表情で声を張りあげました。「アフリカでは毎日たくさんの子供達が餓死しているのよ!」 (どうしてここで急にアフリカの話が出てくるんだ? 関係ねーだろ)と思いましたが、裕美子の機嫌を損ねたくなかったため、私は文句を言わず、そのかわり彼女にこう答えました。 「人道主義者の僕としては、アフリカの飢えた子供達にこのミルクを飲ませてあげるべきだという裕美子さんの意見に大賛成だ。でも、現実には、このミルク一パックを彼らに届けるというのは不可能だよ。かなりの輸送費がかかるし、だいいち到着する前に腐っちゃうよ」 「でも」裕美子は執ように言いました。「ミルクを捨てるのだけはやめて!」 「じゃあ、どうすればいいんだ?」 「あなたが飲むのよ」 「飲めないよ。実を言うと、僕は今朝から下痢をしてるんだ。だから、ミルクは捨てよう」 「ダメよ。罰が当たるわ。飲みなさい!」 「嫌だよ」 「そうだわ。もしあなたがこのミルクを飲んでくれたら、今夜、私の体のミルクをダイレクトに飲ませてあげる・・・」 裕美子は美人で頭がいいだけでなく、かなりのユーモアを持った女の子です。彼女はすぐに「嘘・・・・・・、今のは冗談よ」と言って前言を取り消したのですが、私はその時にはもうミルクを完全に飲み干していたのはもちろんのこと、ストローで中のミルクをおもいっきり吸いまくったため、紙パックの内側の表面はからっからに乾燥し、そこにはアフリカの大地の干ばつを思い起こさせる亀裂すら入っていました。 すぐに寒気がして、私の全身から冷汗が湧き出てきました。下痢をしているというのに冷たいミルクを急に飲んだため、腹が痛くなったのは当然です。 「大丈夫?」裕美子は私の異常に気付き、声をかけてくれました。 「ちょ、ちょっと、ト、ト、トイレに行ってくる」私は蚊の泣くようなうめき声をあげました。 「じゃ、私はここで待ってるわ」無責任な裕美子はこう言ってハンバーガーにがぶりつきました。 「ウォーーー!」私はアマゾン川流域に広がる密林の中を縦横無尽に駆け巡る野獣の雄叫びを店内に轟かせて席を立ちました。下腹部はすでに爆発寸前の状態になっていたので、私は人目を気にすることなく、ズボンの上から尻の穴を右手で強く押さえました。そして、顔をしかめ、体を硬直させながら、一歩一歩ゆっくりと、漏れない歩幅でトイレに向かいました。 途中、何度か排泄の欲求がピークを迎えたのですが、そのたびごとに立ち止って体をよじり、「グゥーオー!」「ウオリャー!」「ギィヤッホー!」といった奇声を発して必死に堪えました。その間、私は店内にいる客全員の注目の的になっているという気配を全身に痛いほど感じましたが、このパフォーマンスはどうしてもやめるわけにはいきませんでした。 トイレに到達する寸前、後ろを振り返ってみたのですが、裕美子はいませんでした。どうやら私を見捨てて逃げたようです。 その店のトイレはひとつしかなく、男女兼用のものでした。そのたったひとつのトイレには、その時、無情にも人が入っていたのです。我慢に我慢を重ね、やっとの思いでトイレにたどり着いたというのに・・・。 あまりのショックに、排泄の欲求のボルテージが一気に高まりました。 (もうダメだ!)と観念しかけた瞬間、トイレの中から用を足した時に起こる豪快な音が聞こえてきました。 「ブリ! ブリブリブリ! バコーン!」 その直後、この世のものとは到底思えない匂いがぷーんと漂ってきました。 「うわっ!」私はあまりの臭さに、非礼を顧みることなく思わず大声で叫んでしまいました。「くっせー!」 と同時に、左手の親指と人差指で自分の鼻をちぎれんばかりにつまみました。こうせずにはいられなかったのです。 すぐに、トイレの中から水を流す音が聞こえ、ドアが開きました。気が狂うほど臭い用を足していたのは五十歳くらいの外人でした。長身で、口ひげをはやし、ダークグレーのスーツを着た、いかにも英国のジェントルマンといった風貌の男です。 彼は、私が左手で鼻をつまみ、右手の指を尻の割れ目に突っ込んでいるのを見て、一瞬、(こいつはいったい何をやっているのだ?)という怪訝な顔つきをしました。 しかし、すぐに外人は、私がなぜそのような不可解な格好をしているのかがわかり、その責任が自分にあることを痛感したみたいです。彼は片言の日本語で「オー、ゴメンナサイ」と言って頭をかき、申し訳なさそうに自分の席へ戻って行きました。 私は即座にトイレに入り、ズボンとパンツを下げ、便器に腰掛けました。そして、下腹部のバルブを一気に開放しました。 第一陣はアイスランドの間欠泉をほうふつさせる勢いで快調に飛び出てきました。しかし後続がいけません。ガスばかりで実体が伴なっていないのです。その後しばらくの間ねばってみたのですが、腹の痛みはなかなか消え去りませんでした。 そうこうしているうちに、トイレの外では人が並んでしまったようで、声が聞こえてきました。 「何、このトイレ・・・? くさーい!」 若い女の情け容赦ないお言葉でした。 (や、やばい!)私の全身からは、再度、冷汗がだらだらと流れ始めました。 ここで私は先ほどと同じ「冷汗」という語句を使いましたが、この時の冷汗というのは、ミルクを飲んだ後に感じた冷汗とはまったく次元の異なるものでした。ミルクを一気に飲み干した直後に湧き出てきた冷汗は、真夏に道端を歩いている時に、ホースで水まきをしていたラーメン屋のおばさんに冷水を全身にひっかけられてしまったくらいの冷たさでしたが、今回の冷汗というのは、北海道に接岸する直前の流氷の上でホモの白熊に犯されそうになり、(海に突き落とされるよりはましだ)と思って一度は体を許してみたものの、あまりの痛さに堪えきれず、思わず自分から海に飛び込んでしまったという、そんな冷たさでした。 やがて、外にいる女は耳が痛くなるほどの大声で皮肉を言い始めました。「お店のトイレはみんなのものなのに・・・、中にいる人は自宅の便所と勘違いしているのかしら・・・」 私はまだまだふんばり続けたかったのですが、もう限界です。これ以上トイレをひとりで占領していると、外の女がドアを突き破って中に乱入しかねません。そうなった場合、女と私は「椅子取りゲーム」、いや「便器取りゲーム」を始めてしまうでしょう。 音楽が始まると、二人は便器の周りを歩き出します。両者とも、いつ音楽が鳴り止むのかとびくびくしてはいるものの、ひとつしかない便器を虎視眈々と狙いながら歩き続けます。やがて、音楽が突然ストップし、女と私は即座に便器に腰掛けようとするのですが、ほとんどの場合、音楽が止まった時の二人の位置関係で勝負が決まります。もし、女が便器の正面を、私が便器の後ろを歩いている時に音楽が鳴り止んでしまったら、女の楽勝です。この場合、私も一応、女より先に座ろうと便器に向かってダッシュするのですが、便器の後ろからだと、便器と水タンクをつなぐ鉄パイプに膝をおもいっきりぶつけてしまいます。こうなると、「勝ったわ」と満足の表情を浮かべながら心置きなく用を足している女の後ろで、パンツを下げたままの私は、激痛の走る膝を両手で押さえながらトイレの床の上をのたうち回るのです。 こんなのは絶対に嫌です。そこで、私はトイレから出ることにしました。 掛け金をはずし、ドアを開けると、そこには二十五歳くらいのOL風の女が立っていました。その女は裕美子とは大違いで、思わず髪の毛をつかんで顔面を便器の縁におもいっきり叩きつけてやりたくなるほどのブスでした。 女は眉間にしわを寄せ、私の顔を、まるで便器内に流し忘れられていた汚物を見るような目で凝視していました。私は、この時、他人の容姿をとやかく言える容貌を自分自身が持ち合わせていないことを改めて認識しました。 数秒間の沈黙の後、女はいきなり私に面と向かって「くさーい!」と叫び、右手で自分の鼻をつまみました。トイレ内には、さっきの外人が残した濃厚な匂いが充満しており、私がドアを開けた後、その強烈な悪臭が女に襲いかかったようです。 私は「しばらく中にいれば慣れるよ」と適切なアドバイスをしようかと思いましたが、女があまりに失礼なので、本当のことを教えてやりました。 「この匂いは俺のじゃない!」私は、席に座ってハンバーガーを食べている外人を右手で指さしながら叫びました。「あの人がやった匂いだ!」 外人はこちらに目を向けはしませんでしたが、私が何のことを話しているのかがわかったらしく、焦って口からハンバーガーをぼろぼろとこぼし始めました。 しかし、女は私の主張をまったく信じてくれません。「他人に責任をなすりつけるなんて男らしくないわね。日本の男というのは本当に情けない。責任感が強い外国人紳士の爪のあかを煎じて飲ましてやりたいわ」 真犯人であるその外人は、食べかけのハンバーガーをテーブルの上に残したまま、逃げるようにして店から出て行きました。 私は自分が無実であることをわかってもらうため必死に弁解しました。「俺はこんな臭いものはしない! これは今出て行った外人が放った匂いだ!」 しかし、女はどうしても納得せず、両者の議論は平行線をたどるだけでした。 「だったら、証拠を出しなさいよ」女は最後にはこんなことを言い出す始末です。 そこで仕方なく、私はもうひとひねり出して、女に匂いの比較を行ってもらうことにしました。 ところが、トイレ付近に漂っている匂いがあまりに強烈なため、そこでは何の匂いを嗅いでも、さっきの外人の残した悪臭しかしないのです。これではどうしようもありません。 結局、女がたまたま検便の容器をハンドバッグの中に持っていたため、彼女に私のを持ち帰らせ、自宅で検討してもらうことにしました。そして、一ヶ月後に再び同じ店で会い、間違っていたほうが謝るということで二人の意見が一致しました。 翌月の第三日曜日、女は約束どおりファーストフード店に現れました。 「どうだった?」私はすぐに尋ねました。「やっぱり、違ってただろ?」 女は落ち着いた声で答えました。「いや、わからなかったわ」 「どうして?」 「あの日、持ち帰った検便の容器を電車の網棚の上に置き忘れてしまったの」 「ば、馬鹿な!」 「翌日、新宿駅の『落とし物センター』に行ったんだけど、私の忘れ物は届けられてなかったの。センターの係員に『貴重なものは、まず出てこないでしょう』と言われたので、私はあきらめたわ」 「・・・」 「でも、二日前、センターから『あなたの落とし物が出てきましたよ』という電話連絡があったの。検便の容器に名前と電話番号を書いておいて本当によかった」 「・・・」 「すぐに私は、落とし物センターに忘れ物を取りに行ったわ。でも、容器を開けてみたところ、中身はすでにかっちかちに乾燥していて、何も匂わなかったの。これじゃ家に持ち帰っても仕方がないので、センターの係員に、『かりんとう食べますか』と言ってあげちゃった」 |
作者の コメント |
実際に応募したが、選考委員であるプロ作家に真意を理解されずに落選。 (作者:フヒハ) |