前置き | 1993年ころ、大手パソコン通信ネットの掲示板に書き込んだ話を多少書き換えた作品。 |
エレベーター2 エレベーターのドアが普通のドアと最も異なる点は、なんといっても閉まるときに何かにぶつかると自動的に開くことです。 あのやたらとぶ厚いドアの中央部には、少し出っぱった部分があり、それがカタツムリの触覚のような役目を果たします。その部分に物がぶつかると、閉じかけのエレベーターのドアは開きます。 普通、閉じつつあるドアを開く場合は、エレベーターの中であれば「開」ボタン、外にいれば上・下どちらかに行くかを示すボタンを押します。しかし、間に合いそうもないときには、とっさに閉じつつあるドアの隙間に手を差し入れ、「触覚」に触れてドアを開けています。 「触覚」でドアを開けることはかまわないのですが、注意をしないと大きな怪我の原因となります。 27歳の平凡なサラリーマン増田は、仕事の後、同僚2人とともに新宿の居酒屋に飲みに行きました。店は雑居ビルの6階にあり、カラオケもできる、ごく普通の居酒屋です。 仕事に関する話も少しはしましたが、ほとんどは上司の悪口、社内の女の子をどう思うか、などのたわいのない話で大笑いし、ほどほどに酔いがまわったところで、翌日も仕事があるため帰ることになりました。 勘定を済ませ、3人でエレベーターホールに行き、増田の後輩がエレベーターの「下」方向へのボタンを押しました。 10秒ほどしてエレベーターが到着し、ドアが開きました。誰も乗っていません。 3人が乗り込むと、一番先に乗った増田が1階を示す「1」のボタン、そして「閉」のボタンを押しました。 そのとき、増田は大学生風の茶髪の男がこちらに走ってくるのに気がつきました。 増田はすぐさま「開」のボタンを押して、その茶髪男を待ってやりました。 茶髪男はさっさと乗ればいいのに、なかなか乗らずに、後ろのほうを見ているだけです。 茶髪男が叫びました。 「早く来いよ! エレベーターが行っちまうぞ!」 どうやら友人を待っているようです。 増田はしばらく「開」ボタンを押さえてあげていたのですが、茶髪男の友人らしき人たちは一向に現れません。 茶髪男は「早くしろ!」と繰り返し叫ぶだけで、乗ろうとはしません。 1分ほど待ったところでしびれを切らした増田は、「閉」ボタンを押しました。 ドアは閉じ始めましたが、完全に閉まる寸前、茶髪男は手をドアの隙間に差し込みました。エレベーターのドアの触覚が茶髪男の手に触れ、ドアが開き始めました。 増田はむっとしました。 連れの奴と一緒に後からエレベーターに乗れよ!」 増田はそう怒鳴ってやりたかったのですが、相手はかなり酔っ払っているようだし、ちょっぴり不良っぽい奴なので逆恨みされるのが怖かったため、無言のまま「閉」ボタンを押しました。 茶髪男は閉じる寸前、再びドアの隙間に手を入れてきました。 ところが、今回は、手の入れ方が中途半端であったため、ドアの「触覚」に触れず、ドアの手前の部分に指をはさまれたのです。 「ウギャー!」 もの凄い悲鳴が閉じたばかりのドアの向こうから聞こえました。 「キャー!」 続いて、若い女の悲鳴が聞こえてきましたが、増田を載せたエレベーターはそんなことにおかまいなく、下がり始めました。 増田はすぐさま「5階」のボタンを押したのですが、一瞬遅かったらしく、5階は通過しました。そこで今度はすべての階のボタンを押しまくったところ、エレベーターは3階で止まり、ドアが開きました。 増田はエレベーターから飛び出し、階段を駆け上がりました。 走って上っている間、徐々に不安が増田を襲ってきました。 指がつぶれていたら、どうしよう。 自分に全責任があるとは思えないけど、「閉」ボタンを押してエレベーターのドアを閉めたのは自分です。 罪悪感にさいなまれながらも走り続ける増田は5階と6階の間の階段で急に立ち止まりました。上の階から声が聞こえてきたのです。 「痛いか」 「がんばれよ」 「救急車を呼ぼうか」 「もう一生右手は使えないかもしれないぞ」 増田は恐くなり、6階に上がるのをためらいました。 逃げてしまおうか。 いや、ここで逃亡すると自分に非があると認めることになるのではないか。 警察に通報された場合、傷害事件の犯人として指名手配されるなんてことになりかねません。 エレベーターのドアは、「閉」ボタンを押さなくったって時間がたてば自動的に閉じるもので、自分はボタンを押してないと言い張ればそれで済むではないか。 さんざん迷いに迷った挙句、結局、増田は恐る恐る6階へと階段を上りました。 エレベーターの前では茶髪男がうずくまり、そのまわりに男の友人と思われる大学生らしき男女6、7人が心配そうに茶髪男をのぞきこんでいました。 増田が近寄ると、茶髪男は右手を左手の手のひらで覆い、それを下腹部のあたりに置いて腰を折り曲げて苦しんでいました。顔は苦痛のため歪んでいます。 よく見ると、茶髪男の左手の指の隙間からアメリカンドックくらいの太さに腫れ上がった右手の人差し指が顔を覗かせています。 増田は最初、それが指とは分からず、男の股間にあるべきイチモツだと思い、立派なものを持っているなあ、と羨ましく思ったものです。 増田は人垣を掻き分け、茶髪男の前に歩み出て、恐る恐る男に声をかけました。 「大丈夫ですか」 茶髪男の苦痛の表情はみるみるうちに怒りの表情へと変貌していきました。 増田がそこでひるみ、「ごめんなさい。私が悪いのです」などと言おうものなら、自分が「閉」ボタンを押したことがばれ、治療費、慰謝料を請求されかねません。 そこで増田は、 「まだ、痛いですか」とだけ言って、茶髪男の右手のアメリカンドックをさすったのです。 増田がいたわりと思ってやったその行為は、茶髪男をさらに逆上させるだけでした。 茶髪男は増田の手を払いのけ、大声で叫びました。 「触るな、ばかやろう! どうしてくれるんだ! てめえのせいで、さっき借りたばかりのアダルトビデオ、今晩使えねえじゃねえか! あした返さなくちゃいけねえんだぞ!」 増田は返す言葉がなく、ただただ平謝りするだけでした。 険悪な雰囲気でしたが、増田が茶髪男の代わりにアダルトビデオをその晩利用するということで男に納得してもらい、警察沙汰になることも、治療費、慰謝料を請求されることもなくその場をなんとか切り抜けることができました。 茶髪男の借りていたビデオは思ったより素晴らしい出来で、翌日ビデオを返しに行ったときの増田の右手の人差し指は、エレベーターのドアにはさまれた後の茶髪男の人差し指と比べても勝るとも劣らないくらいの大きさに腫れ上がっていました。 |
作者の コメント |
掲示板への公衆便所の連載と同じく、エレベ−タ−の話もシリ−ズ化して書いていこうと思いましたが、私自身、エレベーターの中では公衆便所に入っているときほど心の高ぶりがないため、これ以上書けませんでした。 この作品に対するコメントを書いてくれた人は、もちろんいませんでした。 (作者:フヒハ) |