前置き | 1993年ころ、大手パソコン通信ネットの掲示板に書き込んだ話を多少書き換えた作品。 |
エレベーター 増田は入社3年目の27歳の男性。ごく普通の会社に勤めるごく普通のサラリーマンです。 その日は残業をして夜の8時に仕事を終え、ホールでエレベーターが来るのを待ちました。 増田の勤める会社はビルの最上階にあるため、エレベーターが1階にいるときにはしばらく待ちます。ビルのエレベーターは一基しかありません。 じっと待っている間、6時ころに女子社員にもらって食べた焼き芋のせいでしょう、無性に屁がしたくなりました。 すぐにぶっ放してもよかったのですが増田は我慢しました。エレベーターホールとオフィスの間にはかすかに気圧差があり、ホール側からオフィス方向に常に微風が流れています。社内にはまだ何人かが残業しており、迷惑をかけると思ったのです。 やがてエレベーターが到着し、ドアが開きました。増田は漏らしてはいけないと、10センチほどの歩幅で慎重にエレベ−タ−に乗り込みました。 夜の8時を過ぎてエレベーターを利用するのは、残業がやたらと多い増田の会社の社員だけです。階下の会社はどこも遅くても7時くらいにはオフィスが閉まります。7時半を過ぎてエレベーターを使うと、途中で誰かが乗ってくるということはありません。1階まで直通運転です。 エレベーターに乗り込んだ増田は、「1階までは一人旅だな」とつぶやき、ふっと肛門括約筋をリラックスさせたのです。 その瞬間、シューというガス漏れ音とともに強烈な臭いが増田を襲いました。それは近代まれに嗅ぐ物凄い悪臭でした。ガスを流出した増田ですら思わずハンカチを鼻と口に当て、呼吸を停止せざるを得ませんでした。 エレベーターのドアはまだ閉まっていません。オフィス内にこの悪臭が流れ込むのだけは是が非でも避けなければなりません。 増田は大急ぎで「閉」のボタンを押しました。が、慌てていたため間違って「開」のボタンを押していました。焦っているのでなかなかそれに気づきません。 「なんで閉まんねえんだよ! おーい!」 増田はそう叫びながらなおも「開」のボタンを乱打しています。 やがて、違うボタンを押していることに気づき、すぐさま「閉」のボタンを押しました。 普段は気に留めもしないことですが、エレベーターのドアというのは、閉まるスピ−ドがやたらと遅いものです。 増田の目の前のエレベーターのドアが閉まる速度は、まるで、テレビ番組でスローモーションのシーンをビデオに録画し、それを再生するとき再びスローモーションモードで見ているような、そんな遅さでした。 いてもたってもいられなくなり増田は再び叫びました。 「早く閉まれよ!」 ドアが半分ほど閉まったときです。突然、同僚の加奈子の叫び声が聞こえました。 「そのエレベーター、ちょっと待った!」 加奈子が猛ダッシュで走る足音が近づいてきます。 増田は「閉」ボタンを親指が骨折するほど力強く押しました。しかしその時、人差指が「開」ボタンにかかっていたため、ドアは無情にも開き始めたのです。 加奈子はぎりぎりセーフどころか、開き始めたドアがまだ完全に開ききる前にエレベーター前に到着し、余裕しゃくしゃく、さっそうと乗り込んできました。 加奈子はすぐにエレベーター内の異臭に気付きました。真っ青になり、 「あ! これ下に行くんですか?」と絞り出すような声で言い、「開」ボタンを押してエレベーターから出て行きました。 その階は最上階なのですからエレベーターは下にしか行きません。加奈子の思いやりには頭が下がります。彼女は人を傷つけない女性として社内でも人気があります。 しかし、普段の加奈子だったらこんな初歩的な虚言はせず、もうちょっとウイットに富んだ言葉を発してごまかしていたことでしょう。そのときは脳が完全に毒ガスにやられてしまっていたに違いありません。 増田は加奈子のことが昔から好きでした。告白したことはありませんが結婚したいと思っていました。 増田は鼻と口に当てていたハンカチが床に落ちたことなど気付くことなく、呆然とエレベーターのドアが閉まっていくのを見届けたのです。そのときのドアが閉まる速度はさっきよりももっと遅いような気がしました。 失意のどん底に落ちた増田を載せたエレベーターはやがて1階に到着しました。ドアが開くやいなや増田は走ってビルを飛び出しました。 が、すぐに戻ってきました。 増田は自分が発散させた臭いがこびりついたであろうエレベーターから同僚達がどんな表情で出てくるのかを確認したくなったのです。自分は少し変態ではないかと思ったのですが、小学校時代に習ったことわざ「自分で蒔いた種は自分で刈れ」を思い出し、どうしても自分で確認しなければならないと考えたのです。 「自分で蒔いた」が「屁をこいて異臭をエレベータに充満させた」に該当するであろうことはなんとなくわかりますが、「自分で刈れ」がどうして「エレベーターから出てくる同僚達の表情を確認する」ことになるのかがよくわかりません。増田もわかっていません。 ビルに戻った増田は、観賞用鉢植えの影に身を潜めました。 すぐに加奈子が下りてきました。彼女はエレベーターは使わず、階段で一階まで下りてきたのです。 うちのオフィスは最上階にあるため、階段を使う社員は皆無で、みんないつもエレベーターを利用します。はるばる1階まで階段を下ってきた社員は、会社がこのビルに引っ越してきて以来おそらく加奈子が初めてでしょう。 加奈子は増田が隠れて見ていることなど気づきません。彼女は埃(ほこり)でも振り払うかのごとく手で服をパタパタとはたきながら出口に向かいました。そして出入口の自動ドアの前で鼻を自分の腕に近づけ、犬のようにクンクンとにおいを嗅ぎ、もう大丈夫と判断したのか、そそくさとビルの外へ出て行きました。増田は加奈子とはもう結婚どころか、付き合ってももらえないだろうと観念しました。 加奈子が帰った約10分後、4人がエレベーターから出てきました。みんな増田の会社の人間で、里香、真理子、増田の二つ先輩の白井、それに営業課長の4人です。 里香と真理子は同い年でお互いに仲がよく、このふたりが一緒にいるといつもおしゃべりに夢中になって仕事にならりませんでした。それが理由で最近ふたりは別の課に移動させられたのです。 エレベーターから出てきたときの里香と真理子はいつもとは明らかに違ってました。ふたりともむっとした顔をして、体をわなわなと震えさせ無言のまま出口に歩を進めました。 あのふたりが一緒にいておしゃべりをしないなんて考えられないことです。元社長の葬式のときでも大声でおしゃべりをして、暗く沈んだ静粛な場をふたりで大いに盛り上げてくれたものです。 里香と真理子を見るだけでエレベーター内にまだ屁の激臭が消え去っていないことがはっきりとわかります。 彼女達と一緒に降りてきた白井のほうはどうかというと、顔面は真っ赤で、エレベーターから出るやいなや、朝から1呼吸もしていなかったかのごとく物凄い勢いで息を吸ったり吐いたりしてました。彼はエレベーターが最上階から1階へ下りる間ずっとと呼吸を止めていたのでしょう。白井は相当苦しそうです。 もし呼吸困難に陥っているのが白井ではなく大好きな加奈子だったら、増田はすぐさま植木の陰から飛び出し、濃厚な口移し式人工呼吸を施したでしょう。その際、呼吸が楽になる、などという理由を述べ、必要もないのに下着を取り去ったかもしれません。増田はそんな人間です。 まあ実際に苦しんでいるのは白井ですので、増田は無視しました。あと1分エレベーターのドアが開くのが遅かったら、白井の身はどうなっていたかわかりません。 増田は次に、エレベーターで降りてきた4人のうちの最後のひとり、営業課長の方へと目を向けました。 課長は他の3人とは大きく異なり、別段変わった様子はありません。何事もなかったかのように歩いています。 さすがは課長。人生経験が豊富なためか、異常であるはずの状況にもうろたえることなく落ち着き払っています。 課長は体をリラックスさせ、いつもと寸ぷん変わらない足取りでビルから出て行きました。 普段と異なっていることを強いて挙げるとすれば、それは頭にイスラエル製のガスマスクをかぶっていることでしょうか。 |
作者の コメント |
オリジナルのメッセージをパソコン通信の掲示板に書いたら、京都のSさんから80行にも及ぶ非常に長いコメントをメールでいただきました。ここではスペースがないのでメールの要点だけ紹介します。 「増田さんはオナラだけで済んだようですが、私はエレベーター内で失禁(大便のほうを)しちゃいました」 私は返事を書きませんでした。 (作者:フヒハ) |