前置き 1994年、中堅パソコン通信ネットの創作のフォーラムにおいて、同ネットで行われたP文学賞の応募者が中心となって「100物語」と称した百の恐い話を作り上げていた(これを「リレー小説」というみたい)。この作品は、尊敬するNさんの依頼を受けて書いた第25話である。(P文学賞についてはこちらを参照)


怪奇「100物語」第25話


  いきなり、見知らぬ男が、何の前触れもなく、突然、酒場に乱入してきて、「みんな、静かにしろ! これから、俺の書いた恐怖話をお前らに聞かせてやる!」と言って、客たちに話し始めた。

 それは、数年前の暑い夜の出来事だった。
 午前2時すぎくらいだっただろうか、山本は奇妙な声を聞き、汗でびしょびしょになったベッドの上で目を覚ませた。

 あー あー 苦しい 助けてくれー あー ・・・

 それは中年の男の呻き声のようであった。
 当たり前なことだが、これは、かなり気味の悪いことである。
 しかし、山本は、お化けとか幽霊といった科学的にはっきりと証明されていないものをまったく信じない男だったので、無視して寝ることにした。

 山本は東京にある一流大学に通っている。地方の出身で、都内でひとり暮らしをしている。
 山本は、木造二階建ての典型的な安アパートの1階に住んでいる。アパートは駅から歩いて5分ほどのところにあり、便利なのだが、とにかく古い。どう見ても建てられてから20年以上はたっているだろう。
 一応、4畳半と6畳の2部屋あり、ひとりで住むには十分な広さがあるのだが、風呂がない。トイレは共同で、アパートの1階の端に1つだけある。
 そのアパートには、現在、全部で6人の貧乏な大学生が下宿しているのだが、ちょうどお盆の時期だったため、山本以外はすべて帰省していた。
 つまり、アパートには山本しかいないはずだった。

 あー あー 助けてくれー あー 苦しい ・・・

目をつぶってみたが、うるさくて眠れやしない。
山本は、いらいらした。
「なんだよ、こんな夜中に」

 助けてくれー あー あー 苦しい ・・・

なおも呻き声は続く。
「ちっ! しょうがねえなあ」
山本はベッドから起き上がり、声のする方向に歩きだした。
奇妙な声は外から聞こえていた。
 山本は、ドアを開け、通路に出た。

 あー 苦しい あー 助けてくれー あー ・・・

どうやら呻き声は突き当たりにある共同便所から聞こえてくるようであった。
山本は、トイレに向かって足を速めた。

 あー あー 助けてくれー あー 苦しい ・・・

呻き声は次第に大きくなる。
山本は便所の前に到着した。

 助けてくれー あー あー 苦しい ・・・

やはり、その不気味な声はトイレのドアを通して聞こえる。
 山本は、目の前のドアをノックした。

 トン、トン

 ここで、トン、トンと、ドアが叩かれる音が返ってきたり、「入ってます」という返事があったりすれば、山本は「畜生! 入ってんのかよ!」とつぶやき、近所の公園に行って野グソをし、部屋に戻ってすぐさま眠りについてしまうところであったが、返答はなかった。

 あー あー 苦しい あー 助けてくれー あー ・・・

 相変わらず、トイレのドア越しに呻き声が聞こえてくるだけであった。
 トイレの鍵はかかっていなかった。
 恐れを知らぬ山本は、何のためらいもなく、ドアの取っ手を握り、一気に手前に引いた。

「ありゃ?」
 どうせトイレの中で誰かがSMでもやってんだろう、と高をくくっていた山本は完全に意表を突かれた。
 中には、誰もいなかったのだ。
 トイレの中央には、洋式便器がぽつんとあるだけで、見た目には異常はまったくなかった。
 正面と左右の壁及び天井には、いかがわしい絵が所狭ましと描かれている。また、中に入ってドアを閉めて便器に腰掛ければ、ドアの裏に克明に描かれた、さらに卑猥な落書きと対面することになる。
 これは、常識的に考えれば「異常」である。とても「正常」とは言えない。
 しかし、それらの下品な絵は、山本がアパートに越してきたときにすでにあったのだ。
 だから異常ではないのである。
 トイレの右奥の隅には、完全に乾燥しきって石綿のようになってしまったウンコが落ちているのだが、これも数年前から放置されてるものであり、異常ではない。
 また、便器の周りには、本数を数えたらおそらく5桁に届いてしまうのではないかと思われるほどたくさんの陰毛が堆積しているのだが、これも同様の理由で異常ではない。
 ただし、床の上に落ちている毛のほうは、山本が住み始めた頃は、こころもち少なかったような気がする。
 まあ、いずれにしろ、見た目には異常はなかったのである。
しかし、

 あー あー 苦しい 助けてくれー あー ・・・

という呻き声はさらに大きくなっていた。
 もう、その声の発信源は明らかであった。
奇妙な呻き声は、蓋のしてある洋式便器から洩れていたのだ。
普通の人間だったら、ここまでに至る途中で、とっくに「ギャー!」と悲鳴をあげ、逃げ出していたところであろうが、山本は違っていた。
山本は、「なんだ、そんなところに隠れていやがったのか」などと意味不明なことを口走りながら、冷静な手つきで、洋式便器の蓋をゆっくりと上にあげたのだった。

「ぎゃあぁぁ!」
 山本は腰を抜かした。
 生まれてから今まで、驚いたことなど5回しかなかった山本がびっくり仰天したのだった。
 山本が4回目に驚いたのは、母親に「おまえのお父さんは、本当はオラウータンなんだ・・・。えーん、えーん」と、とんでもない告白をされたときなのだが、その前の3回はまったく覚えていない。
 そんなことどうでもいいのだが、とにかく、山本が驚愕したのは無理のないことだった。
 何しろ、便器の中には、40才くらいの男の生首があったのだ。
 そのおぞましい生首が呻き声を発していたのだ。
 生首の顔面は血だらけだった。
 非常に苦しそうな表情をして呻いている。
 髪の毛がかなり長い。
 俳優の江口洋介くらいか。

「こ、こ、これは、ゆ、ゆ、夢に、ち、ち、ち、違いない」
 声を震わし、山本は首を振った。
 こんな非現実的なこと、山本は信じたくなかったのだ。
 山本は、すぐさま、便器の蓋を閉め、レバーを掴み、「大」の方にひねった。
 なんてことするのだろう。
 ウンコじゃないのに。

 ジャーーーーー

 水が流れる音が、しばらく、トイレ内に響いた。
 そして、静かになった。

 ・・・

 呻き声は消えていた。
 山本は、今度は恐る恐る便器の蓋の縁に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた−−−−−便器内に何もないことを期待しながら。

「なに!」
 山本は思わず叫んだ。
 洋式便器の中には、相変わらず江口洋介がいたのだった。
 でも、今度の顔には血はまったく付いていない。
 長い髪の毛はびっしょりと濡れていた。
 トイレの水を流したんだから当たり前だ。

「う、嘘だ! こんなの絶対に嘘だ!」
 山本は、どうしても信じたくなかった。
 山本にとって、こんなことは、絶対に有り得ないことなのだ。
 しかし、便器の中には、実際に生首が存在している。
 ウンコじゃない。
 本物の生首なのだ。

 山本は、しばしの間、呆然とした。
 江口洋介と向かい合いながら。

 やがて、突然、山本は指をパチンと鳴らして言った。
「そうだ! これは幻覚だ! そうに決まってる!」
 何でも自分の都合のいいように解釈してしまうのが得意な山本は、すぐさま元気を取り戻した。
「なんだ、幻覚だったのか・・・。おかしいと思ったよ」
 おかしいのは自分の頭だとまったく気づかない山本は、こう言って大きなため息をついた。
 山本は、実際に見ている現実を幻覚と決めつけたにすぎない。
 しかし、そう思い込んでしまうと不思議なもので、便器の中の江口洋介がまったく気にならなくなった。
「こんなの、幻覚なんだよーん」
 山本の表情に余裕が出てきた。
 しかし、すぐに生首は口を開け、再び呻き始めた。

 あー 苦しい あー 助けてくれー あー ・・・

 でも山本は、もう動揺しなかった。
「これは幻聴だな。驚く必要などこれっぽっちもないや」
 山本は、鼻歌を歌いながらパジャマのズボンの前を開けた。そして、便器に向かって小便を始めた。

ジャーーーーー

 すると、どうしたことであろう。
 便器の中の生首が、口をパックリと開けたまま、山本の小便を口で受けとめ始めたのだ。
 山本は気味が悪くなり、下腹部に力を入れて小便を途中で止めた。
 すると、江口洋介は口を閉じ、ゴックンと喉を鳴らし、満足した表情で言った。
「あー、うまかった」
 これには山本は怒った。
「ふざけんな! 馬鹿野郎!」
 こう怒鳴りながら山本は、江口洋介の顔面におもいっきりパンチを浴びせた。

 バシッ!

 その瞬間、びしょびしょの髪の毛から水しぶきが飛び散った。
 気がつくと、生首は左側を向いていた。
 山本の強烈な右フックが炸裂したのだ。
 江口洋介はゆっくりと正面を向いた。
右の頬は大きくへこみ、真っ青になっていた。
 江口洋介は顔をしかめ、目に涙をたっぷりとためながら今にも泣き出しそうな声で言った。
「痛い」
 山本は、トイレの隅に落ちている石綿を口の中にぶち込んでやろうかと思った。
 思っただけでなく、山本は、本当に実行することにした。
 山本は、トイレの奥に右手をのばして、石綿を掴んだ。
 石綿は予想していたよりもはるかに軽かった。
 ここまで乾燥しきっていればもう臭くはないだろう、と思い、山本は、石綿を自分の鼻に近づけてみた。
 思った通り、まったく匂わなかった。
 ただ、嗅いだときに綿の繊維が鼻の穴の奥深くに吸い込まれたらしく、頭の中心、脳の下あたりが無性に痒くなった。
 それは、とても我慢できるような痒さではなかった。
 山本は、顔や頭や後頭部を掻きまくった。
 しかし、痒みはいっこうに治まらない。やはり、痒い部分を直接掻かないとダメのようである。でも、頭の中ではどうしようもない。
 山本は、一応、念のため、小指を鼻の穴に突っ込んでみたが、第二間接までしか入らず、焼け石に水であった。
 山本は痒くてのたうち回った。髪の毛を掻きむしって苦しんだ。そして叫んだ。
「助けてくれー!」
 その悲鳴を聞いて江口洋介が言った。
「あんたは、いったい何をやってんだ?」
 山本は、この言葉で我に返った。
 山本は生首が行った許しがたい行為(安眠を妨害したこと、オシッコの飲んだこと)に対して腹を立てていたのだ。そして、その腹いせとして、石綿を江口洋介の口にぶち込もうとしていたのだ。
 山本は、右手に持っている石綿を江口洋介の口に近づけ、一気に挿入しようとした。
 しかし、江口洋介は途中で口を閉じてしまった。
 そのため、石綿は生首の口にくわえられた状態になった。
 すかさず、江口洋介が言った。
「葉巻だよーん」
 山本は、こんなくだらないジョークに納得できず、怒りをさらに爆発させた。
「そんなにほしけりゃ、一服させてやる!」
 山本はこう言って、ポケットからライターを取り出し、江口洋介がくわえている葉巻の先端に火を付けてやった。
 葉巻はボッと炎をあげ、すぐに燃え尽きた。
 石綿は完全に乾燥していたため、火のまわりが早かったのだ。
「あっちー!」 
 江口洋介は悲鳴をあげた。
 火傷のため、唇がただれていた。
トイレ内には、異様な匂いが漂っていた。
この匂いはどう表現したらいいのだろう。非常に難しい。強いて言えば、汲み取り式便所が火事になったような感じか。これは、葉巻が元々は何であったかを考えれば非常に納得がいく。
これで山本の怒りが静まったわけではない。これだけでは、まだ、山本の腹の虫は全然治まらない。
 山本は、さらなる報復として、便器の周りに落ちている毛を千本くらいかき集めて束ね、生首の鼻の穴に押し込んでやった。
 挿入している間、この中に自分のは何本あるのかな、などという、どうでもいいことを考える余裕は山本にはなかった。山本は、生首の鼻の穴への陰毛の挿入に全神経を集中させていたのだ。
作業を終えると、山本は、便器の蓋をバタンと閉め、トイレから出て行った。
そして、自分の部屋に戻り、すぐにベッドの上に横になった。
 怒りのため、全身がわなわなと震えていた。
「畜生、ふざけやがって・・・。変態野郎めが!」
 山本は悔しくて、朝まで一睡もできなかった。

 あー おいしかったけど あー その後のパンチが痛かった
 あー 唇が熱かった あー 鼻孔が詰まって息ができない
 あー 苦しい あー 助けてくれー あー ・・・

 その後の数日間、便器の中からは訳のわからない呻き声が洩れ続けた。

終わり


 男は、話を終えるやいなや、酒場から一目散に逃げ去った。


作者の
コメント
リレー小説のような企画に参加するのは初めてだったが、緊張感があり、結構楽しめた。途中でこのパソコン通信ネットは辞めてしまい、予定通り100まで話が続いたかは不明。
(作者:フヒハ)

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